鹿島鉄道の車輌

   
キハ430形 キハ714 KR-500形 機関車 貨車

キハ600形

 いわずと知れた元国鉄のキハ07の車輌。関東鉄道時代に前面 (運転台) の改造が行われ、特徴のある流線型から現在の切妻と なりました。また、排気方法もキハ07では床下排気でしたが、この改造で現在よく見られる屋上排気に変わりました。 関東鉄道でもキハ07の譲受車はありましたが、片運化されたり、中央扉が両開きとなったり、ステップが撤去されたりするなどしていたため、 鹿島鉄道の方がより原形をとどめていました。改造された当初は貫通扉もありましたが、のちに埋められて現在の姿と なりました。また、平成6年 (1994年) には冷房化 (サブエンジン式) も行われ、老齢ながら通年で働く車輌となることができました。 塗装はキハ07当時と同様に上がクリーム、下が朱色となっていましたが、KR-500形の導入をした際に同じ塗装に変更されました。 しかし全国的なリバイバル塗装ブームの影響からか、数年前に国鉄急行色の塗り分けとなりました。

 キハ601は昭和11年10月26日製造の元キハ07-29で昭和40年3月に鹿島参宮鉄道に入線しました。入線した当初の車番はキハ42503で 同年に液体変速機が使用され、昭和47年に総括制御化されたのを機にキハ601に改番されました。

 キハ602は昭和12年3月16日製造の元キハ07-32で昭和41年10月に関東鉄道に入線し、当初の車番はキハ42504でした。 キハ601と同様に液体式となり、総括制御化されたのを機にキハ602に改番されました。このキハ602のほうはドアが原型に近い プレスドアが使用されていることが特徴となっています。また、キハ07-32は大宮工場製という珍しい車輌でもあり、銘板も 「鉄道省・大宮工場・昭和十二年」となっていました。

 旧塗装のキハ602です。KR-500にあわせてワンマン車はこの塗装になりましたが、キハ07にこの塗装はやはりあまり似合って なかったように思います。旧塗装はツーマンのキハ714には適用されておらず、キハ430形も塗られていたかは不明です。尾灯に 注目すると、このころは後部標識板がまだ残っていたことが伺われます。

 キハ600形はすべてロングシートとなっていますが、木製の床はキハ07であることを物語っています。運転台の仕切り扉は ワンマン運転時には開かれます。なお、鹿島鉄道ではワンマン運転は前乗り前降りとなっているため、整理券発行機も扉の向こう に収まっています。

キハ430形

 キハ430形はもと加越能鉄道のキハ125と126で、ともに東急車輛・昭和32年11月製です。この車輌が使用されていた加越線 (石動〜庄川町) が昭和47年 (1972年) 9月16日に廃止され、翌年3月に関東鉄道譲渡されのちに鉾田線に配置されました。 キハ430形の特徴は湘南型の顔立ちですが、現役最後のDHF13系エンジン搭載車輌でもありました。扉が運転席の直後にある ことから昭和61年にワンマン化されました。全長16.5mの中型車であり床下に余裕が無かったため、最後まで非冷房のままとなり 夏季には使用されないことも多かったようです。

キハ431(右)と432(左)  キハ430形の塗装は長らく後述のキハ714と同じでしたが、2002年にこのように別の塗色で金太郎塗りの塗り分け となりました。なお、加越能鉄道での塗装は幕部にも朱色 (?) の塗装で、ヘッドライトにかけて金太郎塗りとなって いました。

 キハ432の車内です。ロングシートとなっていますが、改造ではなくもともとロングシートだったようです。手前にある エンジン点検蓋は鉄製ですが、それ以外は木製床というのもうれしいところです。このキハ432の乗り心地は (線路状態の 関係もあるかもしれませんが) 板バネ車独特のジョイント部の振動はほとんど無いのですが、縦揺れがかなり激しかったのが 印象的でした。

 年代ものの扇風機が唯一の冷却装置 (?) でした。右側の格子状のものはスピーカーではなく通風器からの通風口です。

 キハ04系のメカニズムを踏襲しているためか、昭和32年製にもかかわらず排気は床下となっています。銀色の四角い箱が マフラーで、その先の下向きの管から排気ガスが出てきます。現在このような床下排気の車輌は、このキハ430形のほかは 紀州鉄道のキハ603のみとなっています。

キハ714

 このキハ714は昭和50年4月1日に廃止となった夕張鉄道から譲受した車輌です。昭和28年8月・新潟鉄工製で夕張鉄道での車番は キハ251でした。鹿島鉄道の前身の関東鉄道に昭和51年1月に入線しましたが、このときもう1輌キハ254 (のちのキハ715) も入線 しましたが、KR-500形の導入により廃車となりました。KR-500導入の際には、三井芦別鉄道から来たほぼ同型車体のキハ711〜 713も廃車となっています。折りしも夕張市が財政破綻をしたことで話題になる一方で、もうひとつの夕張も幕を閉じることに なりました。なお、このキハ714は故郷夕張へ帰ることになったようです。

 バス窓・湘南マスク・菱枠台車と古い気動車の要素がぎっしりつまった車輌です。車内はロングシートになりましたが、 製造時はセミクロスシート、のちに転換式クロスシートとなり、関東鉄道に移ってからロングシートとなった経歴を持ちます。 運転台と扉が離れていることからワンマン化はされず、それゆえ運用が限られてしまったことからより人気が高まりました。 晩年では運転日と運転列車が決められ、知っていれば必ず乗車や撮影ができるようにサービスがされていました。 塗装はKR-500形と同じ塗装になることもなく、側面の広告だけが変わるだけで長くオリジナルの塗装を守ってきました。

KR-500形

 キハ710系を淘汰した敵役、と言う見方もあるかもしれませんが、日々の利用者にとっては初めての冷房車として喜ばれた 車輌でした。平成元年 (1989年) から平成4年 (1992年) にかけて4輌が導入されましたが、504は「4」がつくため忌み番号として 欠番となっているため、番号は501〜503と505です。エンジンはDHF13HS系 (前述のキハ430形のDHF13とはまったく異なるエンジン) で、座席はセミクロスシートとなっていました。いわゆる「新系列」と呼ばれる車輌ですが、大先輩の在来車とも連結して運転 することはできたようです。塗装はキハ600のところで紹介したものでしたが、2003年に各車で色を変えたものになりました。

 長男のKR-501は平成元年 (1989年) 6月8日の生まれで、ラインの色は登場時の塗装に使われたラインカラーと同じ薄紫色です。 「かしてつ応援団」とは、沿線の中学・高校の生徒による鹿島鉄道存続運動の団体で、駅の清掃などにも参加していました。 この車輌はミャンマーへと旅立って行ったようです。

 双子の弟、KR-502も平成元年 (1989年) 6月8日の生まれです。ラインの色は赤色となっていました。側面の広告は地元の方に よるバンド「サウンドWrap」による鹿島鉄道の歌「鉾田線」のCDの広告で、それまでは広告がラッピングされたことは ありません。

 三男のKR-503は平成3年 (1991年) 12月の生まれです。ラインカラーは緑でした。この503は502とともに石岡駅で解体されて しまいました。

 末っ子のKR-505は平成4年 (1992年) 12月の生まれです。ラインカラーは水色で、この車輌は側面に何もラッピングされて いない状態でした。わずか15年の生涯は、かつてのレールバスを思い起こさせられます。

機関車

 廃止時には貨物は廃止されていましたが、数年前までは貨物列車が走っており、常磐線へ乗り入れる客車臨時列車があった こともありディーゼル機関車も保有していました。以下の機関車のほか、国鉄から購入したDD13 (171と367) もありましたが、 こちらは貨物廃止と同時に廃車となっています。

 長く常陸小川駅で保存されていたDD901です。その経歴はディーゼル機関車黎明期に国鉄に貸し出されていたDD42に始まり ます。生まれたのは昭和30年 (1955年) 10月で、日本車輌の製造でした。エンジンはDMF36 (450馬力) が2基で、蒸気機関車の ように連結棒で動力を伝える「ロッド式」でした。国鉄では昭和32年から1年間使われましたが、借り入れ期間終了と同時に 筑波常総鉄道 (現在の関東鉄道) が購入しました。その後エンジンと変速機をDD13と同じものに改造して関東鉄道常総線の 貨物列車に活躍しましたが、昭和49年に常総線の貨物営業が廃止となったことで、鉾田線に転属となりました。鉾田線では 百里基地への貨物輸送などがあったためしばらく活躍を続けていましたが、廃車(DD13入線の頃?)となった後は常陸小川駅で 保存されていました。残念ながら2007年2月27日、鹿島鉄道廃止より一足先に解体されてしまいました。余談ですが、関東鉄道 には同じような風体でセミセンターキャブのDD502という弟分の機関車がいます。

 DD13と同形のDD902は昭和43年 (1968年) 8月日本車両の製造です。DD13と同様の車体ですが、重連総括運転はできません。 登場からずっと黒色 (こげ茶色かも?) に白いラインでしたが、2005年にこの赤い塗装に変更されました。なお、国鉄から購入した 2輌のDD13も同じ黒っぽい塗装になっていました。このDD902は廃止前に日本製鋼室蘭に譲渡されました。

貨車

 貨物営業が廃止された後も、何輌か貨車が残されていました。なお、貨物営業は百里基地への燃料輸送が主であったため、 使用される貨車は鹿島鉄道所有でないことがほとんどでした。

 この貨車は、石岡駅の端、車輌検修場の脇に留置されていました。スム1000形?と思われますが、草が生い茂って車番は 不明です。関東鉄道時代からの車輌で、表記が「関東 鉾田線」のままとなっています。

 バラスト散布用のホキ800形801と802です。このときは常陸小川に留置されていましたが、行く時期によっては別の場所に いる「事業用車」でした。車籍自体はかなり前からなく、「備品」扱いであったようです。


きはゆに室長