特集 クモハ42 |
クモハ42とは? | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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@ クモハ42の誕生までクモハ42が登場する昭和初期、関西では私鉄の方が電車化が進んでいました。昭和7年、鉄道省はようやく関西にも電車を走らせるようになり、片町線で始めて走ることになりました。このとき登場したのがモハ40系で、片隅運転台、全車貫通式は関西スタイルとも呼ばれるようになりました。次に鉄道省が電車を投入を決めたのが大阪近辺の東海道本線です。当時京阪神地域は阪神・阪急・新京阪(現、阪急京都線)が壮絶なスピード合戦をしており、現在と大差ない速度で運転していました。特に新京阪においては、国鉄の誇る特急「燕」を追い抜く(蒸気列車vs電車では当然かもしれませんが)という逸話が残っているほどです。そのような経緯で、京都-神戸間に急行電車を走らせることが決まり、これらライバルに対抗できる性能と客室サービスを備えた車輌が必要とされるようになりました。こうして登場したのがクモハ42を含むモハ42系なのです。そしてこのときから、現在に至る京阪神間のスピード&サービス合戦が始まるのです。 A クモハ42の性能最大のライバルであった新京阪の誇るデイ100(P-6)と比較すると、デイ100が全長19mであったため、モハ42系の20m車は輸送力で優位に経つことになりました。ギア比もモハ42系が( 1:2.26 )である一方、デイ100は( 1:2.346 )であり、こちらもモハ42系が優位に立っていますが、モーターの出力が100kw×4であるモハ42系に対し、デイ100は149kw×4という高出力でカバーしています。 その後モハ42系に大きな転機が訪れました。戦争の激化です。太平洋戦争が始まった昭和16年辺りでは大きな変化はなかったのですが、空襲が本土に本格的に始まったころから鉄道車両に対しても資源の統制と効率的な運転が求められてきました。車輌で言えばD52やEF13、モハ63系、トキ900といった戦時設計のもののほかC11やD51でも製造工程を簡略化した設計に変更されました。そして既存の車輌の場合、気動車(ガソリンカー)は客車代用や休車となって次々姿を消し、電車は2等車の廃止、扉の増設、クロスシートのロングシート化、はてはシートの一部撤去まで行われました。 もちろんモハ42系も例外ではなく、クモハ42のうち002,007,010が4扉改造をされ、のちクモハ32に改番されています(なお、このクモハ32はモハ32系とは別となっており、モハ32系は同じ時期に行われた称号改正によりモハ14系となっています)。また、012は昭和19年7月にクモハ51073に改番されましたが、改番された当初は改造は何もされずにモハ42の姿のまま走り続けていました。昭和28年に車体更新を行われた際に、片方の運転台を撤去と3扉化がされ、ようやくクモハ51らしくなりました。この073は、その後830に改番されました。 なお、モハ43とクハ58も4扉化されモハ64とクハ85になりましたが、国電車で最初に4扉化されたのはモハ43028でした(昭和17年改造)。この2形式も、クモハ32へ称号改正がされた時期にクモハ31とクハ79に再度形式改称されています。クハ79という形式は、いわゆる「ロクサン」形の車体更新車と同じ形式ですが、4扉車ということで同じ形式に組み込まれたようです。一方、2等車を含んでいたクロハ59は、一度クハ68に格下げ・3扉化された後にロングシートへと改造されクハ55となり、一部は戦後クハ68に編入されるという複雑な経緯をたどってゆきます。 扉の増設を免れた残りの車輌も、関西から離れてからギア比を一般車と同じ 1:2.56に落とされ、高速運転で活躍する姿は見られなくなりました。このほかパンタグラフがPS11からPS13に替えられたり、ATS設置による窓配置の変更、全面窓のHゴム化など細かい部分が原型と異なったものもありますが、全体としては原形を保った車輌が多くありました。なお、宇部3兄弟(?)はパンタグラフをPS13から103系などで使用されているPS16に変更され、ATS-SW化によるスイッチの交換やワンマン運転用の料金箱の設置(手動・可般式)といった変更も追加されました。
B クモハ42の履歴昭和9年7月20日に吹田〜須磨の電化が完成し、モハ42系一家は関西に引越して当初の任務につくこととなりました。その後「流電」モハ52系の登場、戦争、改造など激動の時代の中をくぐりぬけましたが、残念ながら003と004は戦災に遭い廃車されました。戦後は一層の物資不足と外地からの復員による人口増加のため車輌は疲弊し、クモハ42もガラスは割れ、窓やドアに板を打ち付けた姿で奮闘していました。そういった状況が一段落しようかという昭和25年、モハ42系の多くがきれいに整備された上で東京に転属となり、クモハ42も全車東京に引っ越すこととなったのです。 東京では一度田町に配属されたあと、一部は伊東支区に配置されて横須賀線や伊東線に活躍することになりました。この活躍はモハ80系や70系の配置が完了する昭和30年前半まで続き、その後クモハ42をはじめモハ42系は各地に散ってゆくことになりました。クモハ42の場合は豊橋と宇部に移り、以後各地で骨をうずめることになるのです。 豊橋に移った車輌は008,009,011,013の4輌で飯田線で活躍するのですが、車体色がそれまでの茶色(ぶどう2号)からスカ色に変わり、モハ42系やモハ51系とペアを組んでかつて京阪神を共に疾走したモハ52系といっしょの職場では働くことになりました。一方宇部に移った001,005,006は宇部線と小野田線で活躍するのですが、こちらは3扉者がメインとなったおり、他のモハ42系は配置されていません。そのためすでにそのころから小野田線の本山支線で活躍することが多くあったようです。 昭和50年も半ばを越える頃になると、クモハ42に限らず旧型国電は老朽化により廃車が始まり、飯田線の南部を管轄する豊橋にはそれまで雑多な形式が所属していた関係もあってモハ80系に置き換えられ、形式の統一が図られました。残る宇部小野田線のクモハ42など旧型国電は少し時期を置いて105系に置き換えられることになるのですが、ここではクモハ42が両運転台車輌であることが幸いして他形式が次々と廃車されるなか本山支線用として生き続け、あとは皆さんもご存知のとおりです。東京で生まれ、すぐに大阪に引越し、東京の大学に進むため再び上京して東京の会社に就職。しばらくして地方の支社に転勤となって定年を迎えた...。人でいえばそんな人生でしょうか。何となく共感される方もいらっしゃるのではないでしょうか?なお、クモハ32やクモハ51830も同時期に廃車となっています。詳しくは以下の廃車年月日をご覧下さい。
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C クモハ42の画像と音、そして動画 (音の長さとファイルサイズ) ↓画像追加!↓ |
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クモハ42の外観 |
クモハ42の車内 |
クモハ42の運転席 |
クモハ42の勲章(銘板) |
クモハ42のサボ |
長門本山のクモハ42 |
今や聞くことのできなくなったクモハ42の運転音を少しだけ聞くことができます。音はmp3形式ですので、みなさんのパソコンのプレーヤーが対応しているかをご確認してお聞きください。「右クリック→対象をファイルに保存」でダウンロードしていただいても構いませんが、無断配布は厳禁です 。個人の範囲でお楽しみください。 |
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戸閉め→発車→CP稼動 (38秒 894k) |
(公開終了) |
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(公開終了) |
(公開終了) |
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