巨大ターミナルの終焉

 2013年3月16日東西で巨大ターミナルがその長い歴史に幕を閉じました。東は東急渋谷駅 (地上駅)、西は梅田貨物駅です。 片や1日の乗降数20万人以上、片や1日の貨物取扱量3000t以上。取り扱う内容は違えど、重要ターミナルであることに 違いはありません。そのような巨大ターミナルも時代の流れにあわせ変貌することとなり、現在の姿を消すこととなりました。 特に梅田貨物駅に関しては身近なうえ、一時期頻繁に撮影をしていたこともあり、その終焉に対しては感慨深いものがあります。 今回は梅田貨物駅最後の日と、以前に撮影した写真を織り交ぜて梅田貨物駅の惜別としたいと思います。

 まずは簡単に梅田貨物駅の歴史から...。
 梅田貨物駅は大阪駅の貨物業務を分離する目的から1928(昭和3)年12月1日に開業しました。現在は大阪駅の北側のみとなって いますが、1934(昭和9)年に駅の南側 (大阪中央郵便局の隣) にも貨物ホームが設置され、1982(昭和57)年まで存在していました。 この南側のホームは昭和34年という早い時期からコンテナ専用となっていましたが、実はこれよりも前、戦前の1931(昭和6)年に 既にコンテナの取り扱いを行っていました。これは当時できたばかりの「イ号1tコンテナ」で、このコンテナは現在のコンテナとは 異なり、フォークリフトではなく、コンテナ上部にあるフックをクレーンで持ち上げて荷役をする方式でした。そのため梅田貨物駅には 取り扱いをするために積降用のガントリークレーンが設置されており、このような設備は全国に11駅存在しました。なお、この コンテナは無蓋車で運ばれましたが、回送運賃を取ることや、(当時としては)容積が大きすぎたこともあり本格的な運用に至りませんでした。
 話を沿革に戻します...。この南側の貨物ホームのほかにも、現在は消えてしまった設備がありました。ひとつは水運用の掘割、 もうひとつは貨車の検修場です。
 水都大阪と呼ばれるほどかつては多くの掘割や運河などが大阪の市中にあり、水運が盛んに行われていました。 当然のごとく貨物駅にも水運の積込場が設置され、北側の区画だけでなく南側のホームにも掘割がつくられていました。しかし高度 経済成長とともに次々と掘割は埋立てられ、水運も下火になってゆきました。こうした中で1962(昭和37)年にこの掘割は埋められ、 その3年後に掘割の跡地にコンテナホームが増強されました。この掘割の後は現在でもいくつか痕跡を見ることができます。まずは 道路。大阪駅の北側の道路を西に進むと少し坂を上るようになります。これは掘割を越えるためのもので、その頂上部分にあたる 阪神高速の出口あたりが南北に貫いていた掘割のあった場所です。また、大阪環状線に乗車して福島方向に進むと、比較的長いガーター橋が あります。これがかつてあった掘割にかかっていたもので、それがなくなった今では少し浮いた存在となっています。
 貨車の検修設備は比較的最近まであり、2001年に吹田機関区に統合されるまで貨車の検修を行っていました。車輛は多岐にわたって いたため、コキやワムはもちろん、梅田では荷扱いをしないタキなども長時間留置していることがありました。また、車輛整備用の 車輪やその他部品を運ぶ緑色の配給貨車 (コンテナも含む) も時折入っていました。この検修のためかは不明ですが、転車台も比較的 最近まで残されていました。
 掘割が埋められたことによって広大な土地を得た梅田貨物駅は、最後まで稼働していた新4号ホームと新5号ホーム (見た目は倉庫) を 完成させ、さらに1969(昭和44)年には梅田貨物線の電化も行います。このころが規模としては最大となりますが、取り扱う貨物の量は 次第に減少してゆくことになります。1982(昭和57)年に大阪貨物ターミナルが開業したことにより前述の南側の貨物ホームが廃止され、 国鉄の分割民営化により敷地全体は国鉄清算事業団に承継されることになり、この頃から貨物駅の移転が発表されていました。しかし 移転先の吹田操車場跡地では貨物駅移転に伴う環境の悪化 (トラックの排ガス等) から反対運動がおこり、移転はずれにずれ込みました。 しかも時期はバブル崩壊後ということもあり、貨物駅跡地の売却先がなかなか決まらないこともあったため、とりあえず先行開発として 東側の部分を売却し、残り (最後まで残った部分) は緑地公園を含めた開発とするものとなりました。先行部分については2000年から ホームの撤去・更地化が行われ、2008年に更地となり、2013年4月にこの区画の街びらきが行われることになっています。 ちなみに梅田貨物駅ではありませんが、大阪鉄道管理局があった場所は1992(平成4)年に更地となり、一旦ゴルフ練習場となりますが 2年で取り壊され、2001年にヨドバシカメラが建てられました。

 現在の駅の形となってから85年、大阪駅扱いの貨物と考えれば138年という長い歴史の幕を閉じることになりました。最終日ということで 撮影陣もあちらこちらでいたほか、現場で働く方の中にも写真を撮られている姿をちらほら見ました。貨物扱いが徐々に減少してゆく中で 入換風景もあまり見られなくなり、また入換の風物詩である笛合図も数年前から (形式上) 廃止となっており、その寂しさは徐々に 迫っていました (笛合図についてはEL解放・連結には残っていることがありました)。東海道本線と大阪環状線を結ぶ梅田貨物線自体は 残りますが、これもいずれは地下化されて姿を消してしまいます。地下化され、新たに地下駅が設置された場合、安治川口への貨物も どうなるかわかりません。あと数年後にはこの場所に高層ビルが生え、緑地になり、そこに何があったかわからなくなってしまうのでしょう。


 それでは各写真をご覧ください。特記以外は2013年3月15日撮影です。

駅舎付近

新4号 (紙扱い) ホーム

西コンテナホーム

北側 (阪急中津駅近傍) から

ノースゲートビル (伊勢丹屋上) から

テコ扱い所(?)跡

線路端から大阪駅方面を見る(1)

線路端から大阪駅方面を見る(2)

夜景

検修庫で使用されていたアント

「国鉄」の名残

珍客

南北連絡線路の跡

堀割の跡

パノラマ写真


きはゆに資料室長