変わる駅の役割

 駅は旅の始まり。人生において重要な転機の舞台。都市の顔、玄関。駅と言えばそういうイメージが浮かびますが、最近の駅は そういったイメージがなくなり、それは鉄道自体においてもそのような重要なイメージを果たさなくなってきているように思います。 ではなぜそのように感じたのか、ご説明いたします。

 ふと思ったのが、特に大都市の駅においてホームにベンチがなくなっていると思ったことが発端です。私の旅は基本的に青春18きっぷを 使い、食費も切り詰めるため食事はコンビニのパンやおにぎりなのですが、最近では車内で食べることもなかなか難しくなってきていますので お行儀よくホームのベンチに腰かけて食べることが多くなってきました。ところが、大都市の駅にはベンチがない駅もあり、あったとしても 少ないため座れないこともありますし、荷物も置いてとなるとそう簡単なことではありません。ホーム上にないのならば、駅構内はどうかと 考えるのですが、これもなかなか難しい、いや、駅構内のほうが座る場所がないことが多いです。ということで改札を出て、外の待合室などは どうなのか...と思いきや、待合室もベンチもなく、普通の飲食店や店ばかり。あるとすればバス停のベンチか公園まで足を延ばさなければ なりません (立って食べるということは考えません)。そもそも、ホーム上にベンチがあったとしても喧噪で落ち着いて食べることはできません。 けれど昔は違ったはずです。まぁ昔はコンビニなどなく、青春18でそこまで切り詰める旅というのも可能だったか、ということはありますが、 少なくとも今のように座ることのできる場所が極めて少ないことはなかったと思います。ほんの10年ぐらい前であっても、もう少し座る場所は あったはずです。では、なぜそのようになったのでしょう。おそらくそれは駅の役割が変わったからでしょう。

 昔の駅は遠くへ行く場合の出発点であり、その市町村・集落の玄関口でもありました。そのため駅には威厳があり、その市町村にふさわしいものが 建てられました。もちろん中の設備もふさわしいものであり、駅の大きさはその地域の大きさ、豊かさにもつながるものでした。現在においても 主要な巨大駅においてはどんどん肥大化はしていますが、昔のものとは質を異にしています。昔の駅の大きさとは純粋に旅客が鉄道を利用するために 必要なスペースと、駅員などが職務を行う上で必要なスペースが合わさったものでしたが、現在においては新たに加わったもうひとつが最も幅を利かせ、 最もやりくりに苦心が払われるようになっています。その新たに加わったものとは商業施設です。
 昔の駅に商業施設がなかったわけではありません。キオスクのような販売所もありましたし、駅そばのような小さな飲食店もありました。観光地であれば おみやげを販売するような店もありましたが、現在のような比率には遠く及ばなかったはずです。「駅ビル」という言葉に象徴されるように、駅自体が 商業施設の一形態となっているのが現在の「ターミナル駅」です。もちろん、地方都市に行けば待合室や売店などが残っている昔ながらの駅もまだありますが、 こちらも近年では高架化や橋上駅となった際に消滅することが多いです。駅に商業施設が増える一方で、待合室やベンチなど乗客のための設備は どんどんなくなっています。これには3つ理由があると考えています。1つ目は列車の本数が増え、座って待たなくても列車に乗ることができるため。 2つ目は大体の人が時計を持ち、列車自体も正確に到着するため「待つ」ということを最小限に済ますことができるようになったから。3つ目は 酔客などの「寝床」となるのを避けるため。...このように考えましたが、この3つはあくまでも「待合室・ベンチが減少した理由」という点のみで 考えた場合であり、商業施設が増えた点については考えていません。商業施設についても含めて考えた場合、この3つよりははるかに優越する理由が 「収益の増加」です。
 昔の駅の場合、収益はあくまでも鉄道事業によるものであり、売店や食堂などはあくまでも厚生事業の一環でしかありませんでした。一方、私鉄においては 小林一三モデルとでも言うような事業展開がなされており、起点駅にはデパート、沿線には自社開発の住宅地と遊園地などの観光施設を作ることが どの大手私鉄でも行われていました。けれどもそうした私鉄の場合であっても昔はそれほど商業施設は多くなく、ターミナル駅以外は駅施設以外はない 場合がほとんどでした。けれども最近では普通しか停まらない駅以外は何らかの店が駅構内に入り、空きスペースがあればそこに商業施設を作ることが 多くなってきました。もはやこうなれば小林一三モデルを通り越した「駅・商業施設化」にほかなりません。こうした流れは鉄道自体にも影響を及ぼして 来ているように思います。

 小林一三モデルにおいて、ターミナル駅に商業施設を置き、沿線に住宅地や娯楽施設を作ることはひとえに鉄道の利用者を増やすことにほかなりません。 その点においては現在の駅の商業施設化にも共通しますが、現在の場合は鉄道をこの施設を利用させるための「道具」として鉄道があるように変わって いるように思います。すなわち、昔の場合は「手段」であり、現在は「道具」だと思っているのですが、あまりその差がわかりにくいと思いますので ご説明します。「手段」も「道具」も「利用するもの」ということでは同じですが、「手段」の場合はその使用について選択の余地があり、選択して もらうために相互の働きかけが存在しています。他方、「道具」は一方的に使うもの。相互の働きかけは存在しません。あるように思われても、それは どちらかが一方的に働きかけ、誘導しているにすぎません。元の話に戻り、ホームのベンチで考えてみると、昔の場合は鉄道を利用してもらうための サービスとしてベンチなどは整備される一方、現在の場合はそうしたサービスよりもいかに乗客の流れを良くするか、商業施設のスペースを多くするかに おかれているということです。ホームのベンチがないというのは旅客をさっさと駅・ホームの外 (車内) へはけさせるため、より多くの旅客を扱えるように するためであり、旅客自体を「お客」としてではなく「物」として扱っています。駅に着いた客をできるだけ早く駅の外に出し、駅に来た客をできるだけ早く 列車に乗せ、じっとすることを許さない状態にします。ベンチ・待合室といった「止まる施設」は減らす一方、通路や階段、エスカレーター、改札口など 「流す施設」は増やす・広げる傾向にあります。
 けれどこれは鉄道会社側が悪いのでしょうか? よく考えてみると、本来このようにサービスを低下させたら移動手段が多岐にわたる現在において、 鉄道以外に客が流れてもおかしくないはずですが、こうした商業施設の開業により駅利用者は急増します。つまり利用者の側は駅のサービスについては 問題とせず、目的である商業施設の良しあしのみが問題となり、鉄道自体は最短距離、または簡単に目的の施設に行くための「道具」でしかなくなって いるのです。旅客の側が「道具」と見なしているのだから鉄道の側も旅客を収益のための「道具」として見なすようになり、旅客に対するサービスが 悪くなる。そして旅客の側はより一層鉄道への興味が薄れ、旅客は鉄道を道具としてしか見なくなり、魅力的なものという印象はなくなる...という 負の連鎖が発生します。

 都市近郊の通勤電車ならまだしも、特急列車であってもケータイいじりやゲームといった暇つぶしをしたり、睡眠をとったりする乗客が多いのは 鉄道の魅力 ―車窓を楽しむ― が無くなってしまったからでしょう。昔であれば旅行は車窓を楽しみ、旅先を楽しみ、帰ってから思い出に浸る... というものでしたが、現在では旅先の目的物しか楽しむことはなく、それ以外の過程はすべて「移動時間」にすぎない。自分の興味のあるもの以外は 忍耐の時間。そうした現在の傾向がまわりまわって鉄道のサービス低下につながり、駅の役割すらも変えてしまったのです。駅の役割はかつて旅客と 密接な関係であったものが、現在は単なる通過点に過ぎなくなってしまったのです。
 駅自体が再び魅力のある、旅客と密接な関係を持つ施設に戻ることはかなり難しいのかもしれません。そしてこのことは駅や鉄道だけの話ではないかも しれません...。

きはゆに資料室長