個の時代

 インターネットのニュースでも流れたためご存知の方も多いと思うが、2月15日午前10時35分ごろ関西本線 (大和路線) 河内堅上〜三郷にて天王寺行き快速が 線路内立ち入りのため30分停車することとなった。午前11時20分ごろには高井田〜河内堅上で同様に線路内立ち入りのため奈良行き普通が10分停車し、この日 上下7本が運休、12本が一部運休となり26本に遅れが出た。この原因は同日に運転されたジョイフルトレイン「あすか」の撮影ギャラリーで、河内堅上〜三郷の 現場には線路脇に50人ほどが陣取り、さらに3人が線路内に立ち入っていた。これだけでもタチが悪いのだが、乗務員が退去するように言っても聞き入れない者が おり、警察の出動によりようやく自体が沈静化するといった始末。JR西日本では被害届を出す「異例」の措置に出たということであるが、このような措置が 「異例」というのも問題である。そもそも鉄道敷地内への侵入は鉄道事業法違反というれっきとした犯罪であり、捜査対象となるべきものである。しかも今回の場合は それにより列車が止まり、さらには鉄道職員の注意を抹殺するといった完全な犯罪行為である。ここまで事が重大にならないと「被害」とならないのであろうか。 確かに多衆が同時に行動を起こしていれば、個人の特定は困難であるし、鉄道会社側が偶発的に発見した場合それを記録する術もない。警察としては誰がどこで 何をしていたかが特定できなければ捜査に動き出しにくいであろうし、とりあえずその場を対処できれば (散らす事が出来れば) よいと考えているのだろう。
 だが、そうしたヤカラはただ散らすだけでは意味がない。11時に発生した方が同一人物によって行われたかは定かではないが、全くない、とは言い切れない。 場所を変え、ほとぼりが冷めるのを待って同じ行動を起こす可能性は高い。同じ日の同じ列車でなくとも、別の日の別の列車に対して行うかもしれない。 問題は本人にそれが犯罪であり、処罰の対象であるということをわからせることである。このテの人間の場合、大きな権力を持った者でなければ動こうとしない。 今回は鉄道員すら無視したツワモノである。当然周囲の善人たる鉄道ファンが注意しても当然無視するであろうし、逆に危害を加えかねない。こうなれば警察に お出まし頂くしかないのだが、追い散らすだけでは根本的な神経は正されないであろう。身体を拘束され、社会的な制裁が加わること―できればしかるべき施設での 矯正を―により、ようやく真人間へ戻る「可能性」がある。「可能性」としたのは、それもまた効かない者が多数いるということを示しているのである。

 こうした特別な列車やサヨナラ列車が走る頃、または路線の廃止の際には大小問わず必ず問題が発生する。場所や列の割り込みといった小競り合いから、今回の ような列車妨害事件まで様々である。とにかく鉄道会社が一番神経を遣うのが線路内の立ち入りであるのは言うまでもない。近年線路内立ち入り防止のため、柵が 張られる範囲が急速に広がっている。これにより従来どおりの撮影できなくなった「名所」も少なくない。だが、これは裏返せばそれだけ列車妨害ととれるような 線路ない進入が多発しているということである。もちろんこれは撮影だけでなく、自殺者や子供、酔っ払いなど鉄道好きではない者も含まれているのだが、だからと 言ってこれらの人々を簡単に非難する事が出来るであろうか。撮影は単に車輌限界内に入っていなければよい、というものではない。運転士から見れば、線路脇に ふらっとつっ立っていればそれは要注意人物に過ぎない。たとえカメラを構えて撮影者とわかるようにしていても、列車の風圧により何か発生すれば、自身の責任 問題となる。ましてや柵のある場所でその柵の中に入っていれば「列車とぶつからないからいいじゃないか」という論理は通用しない。もはや不法侵入犯である。 だが、こうした光景は良く見る。それほどまでに鉄道は悲しく「オープン」なのである。
 撮影する方にとっては「これでいいだろう」という感覚は、鉄道側には通用しない。撮影者側が無責任なのに対し、鉄道側には様々な責任がある。まず、運賃を 支払った乗客を、定時に目的地まで送り出すこと。次に安全な運転によって乗客に死傷者を出さないこと。そして沿線に対して人的・物的な被害を出さないよう 最大限の努力をすること、である。鉄道会社の努力によりこれらの責任を果たす事が出来ても、無責任な乱入者によりぶち壊しとなる。しかもそれが自分たちを 「好きだ」と言っているのだから余計にタチが悪い。そうした悪例の最たるものが過去にいくつかあったので、紹介する。

 1976年9月4日(土曜)、東海道本線京都〜大阪で大阪〜京都開業100年を祝うSL列車「京阪100年号」が運転された。東海道本線の蒸気機関車運転、記念列車、 SLブーム、そして土曜日と人が集まる要因を存分に含んでいた。現に午前の段階で人手は4万人にのぼり、往路の京都→大阪はなんとか無事に終わった。 だが、復路で事件は起きた。列車が茨木駅西方にさしかかった16時30分ごろ、撮影をしていた小学生 (11) がこの列車にはねられ死亡したのだ。その事故当時には 人手は10万人に上り、事故現場から再発車した後も線路内への立ち入りによって列車は高槻駅で打ち切られることとなった。この小学生が飛び出したのか逃げ そびれたのか、はたまた後ろから押されたのかは定かではないが、鉄道撮影による、それも記念列車による死亡事故として大々的に報じられた。
 当時、SLブームの最終局面にあり、蒸気機関車の走る路線では事故寸前の事態が多数報告されていたため、今回の列車では公安官、職員だけでなく大阪・京都 両府警からも応援を要請する「国賓以上」の警備であったのだが、それでも事故は防げなかった。その後SLの運転が大都市や主要幹線では行われなくなるなど、 鉄道好きにとっても大きな代償を生む事件となった。皮肉なことに、SLブームが去った後はブルトレブームが発生し、国鉄はしばらく若年ファンに神経を尖らせ なければならなかった。

 この事件では集団心理や警備体制、開催場所や告知方法など様々な要因が重なり、半偶発的に、半必然的に発生したものであるが、悪意を持って行われた「犯罪」も あった。

 1984年11月27日、大学生2人と専門学校生1人が京都府警に逮捕された。逮捕の直接の容疑は小浜線青郷〜松尾寺にあるトンネルにU字溝を置き、急行「わかさ1号」を 脱線させたというものである。だが、この3人の悪行はこれだけではない。福知山鉄道管理局管区において同年5月ごろから発生していた列車妨害、物損事件、脅迫 など計25件がこの3人により行われていた。
 驚くべきはその動機である。「目的列車が通らなかった」「シャッターチャンスを逃した腹いせ」「報道されているのを見てエスカレートした」。果ては当時 発生した「富士」の事故に関連して「事故復旧作業の写真を撮りたくて」といった常識をはるかに超えるものであった。その後、この3人にどのように処罰が下ったは 定かではないが、周辺では置石などこれの模倣犯が発生する深刻な問題が残った。

 ここまでくると「事故」や「いたずら」はたまた「うっかり」では済まされないれっきとした「犯罪」であることは言うまでもない。そもそも鉄道を撮影対象と しているのに、そのようなことをする神経がわからない。だが、これは昔の事件とは言い切れるだろうか。むしろ現代のほうがそのような事件が発生する危険性は 大きい。それは「個人の時代」だからである。

 「個人の時代」、すなわち「個」の空間の問題である。「個」の空間とは、簡単に言えば自分の部屋、または自分の机のように自分の裁量が極めて大きい 空間のことである。それと相対するのはもちろん「公」の空間である。
 「個」の空間においては、自分自身で全てのことを管理する必要があるが、その管理の度合いは人によって大きく異なる。潔癖症の人の部屋でもゴミ屋敷でも 同じ「個」の空間である。ただ、「個」の空間であっても「公」の空間との接触、または別の「個」の空間との関係により、その「自治度」は大きく左右される。 中学生になり、自分の部屋を持っても親が掃除をしに入ってくるので以前と大して変わらない...というような感じで、そこで「自治度」を上げるため努力をする。 自ら掃除をし、親の干渉を必要としないようにする場合もあれば、部屋にカギをつけて物理的に干渉を排除することもある。もちろんその過程はスムーズに発展する こともあれば、親子喧嘩という紛争に発展することもある。だが、こうした過程において、人との接し方、交渉の仕方、認められ方、やってはいけないこと、など 将来絶対的に必要となる様々なものを得てゆく。だが、この「個」の空間を幼いうちから与えられ、その後他からの干渉がほとんどない状態であったならばどのように なるだろうか。干渉があっても上手くやっていける場合だと何も問題はない (もちろん、このような場合は極めて稀だと思うが)。干渉があれば衝突は必至の場合が 問題である。これは干渉が発生し、その後干渉をさせないほどぶつかった場合も含むが、そうなれば不完全な「個」の空間は無秩序状態で放置される。それがまだ 行動範囲の狭いうちならばまだよいだろう。高校生ぐらいになり、行動範囲が広まるとどうなるだろうか。それは直ちに「問題行動」として非難されることになる。 自分の身勝手なルールだけを持ち、別の空間に出たのであるから当然問題が発生する。その問題をただす役割は一応万人が持っているのだが、主要な面々と言えば 教師であったり警察であったりする。もはやその場に親は入ることは出来なくなっている。これである程度理解できればいいのだが、それでも理解できずに自らの 空間を引きずり続ける場合もある。
 このような「個」の空間の問題は人それぞれ様々な形で必ず経験するであろうし、大部分の人はうまく乗り越えて社会に通用する経験を積むことになる。しかし 現在ではもう一つ問題が発生している。それが「個の空間の公への進出」である。それまでは「個」の空間での行為が「公」の空間でもなされるようになっている のである。最も簡単な例が携帯電話である。電話は家庭でもある場所に行かなければ使用できず、使用するには多少の干渉リスクがあった。まずコードレスや親子 電話により干渉の度合いが薄れ、携帯電話によってその干渉はほぼ消滅した。だが、コードレスホンと携帯電話の違いは、前者の場合はまだ「個」の空間から脱し 切れないものであるのに対し、後者の場合は「個」の空間を持ち運ぶことにある。つまり「個」の「公」への侵出である。とかく「個」の空間は居心地が良い。 「個」の空間を形成するものも同じである。だが、それは他者も同じと言うわけではない。そこで問題が発生するのだが、不思議と干渉は発生しにくい。それは 周囲も「個」の空間を持ち歩いているためで、それを干渉することで自らの空間が破壊されるのを厭うためである。または、「公」の空間においてはそのような 「ならず者」に対しては距離を置く事が最善の策である、という経験が働くためであろう。これにより「個」の空間の「公」への侵出はとどまることを知らず、 もはや「公」の空間は無秩序の状態となってしまう。「公」の空間は消滅し、「個」の空間の集合体でしかないため、至る所で好き勝手な行動が発生する。
 だが、携帯電話以前にも、「個」の空間を「公」に侵出させた重要な存在がある。それはマイカーである。マイカーはまさに「個」の空間そのものである。 好きなときに好きな場所に行く事が出来、車内であれば自分の家と同じような事がある程度出来る実に快適な空間である。時代と共にその空間で出来ない事が 出来るようになってゆく。ゲーム、テレビ、電話、トイレ...。こうして「公」な空間への接触は少なくなり、「個」の空間はより濃密なものとなってゆく。 そしてその濃密な空間を味わった世代が次の世代を生み出す時期に来ている。「個」の空間の良さを知る者が「個」の空間を統制することはもはやできない。 かくして無秩序な「個」の空間は増殖してゆく。そしてこれがある時期に一気に「公」の空間に放たれるのだ。この世代にとって、「公」の空間は存在しない。 注意されても何を注意されているのか理解できない。理解しても身内に注意された程度の認識だろう。このように暴走した「個」の世代は、新たに携帯電話という バージョンアップツールを手に入れ、さらに問題度を増してゆく。マイカーにより形成された「個」の世代では、まだ携帯電話に対する問題意識は形成されやすいが、 「個」の空間のうまみを知っているだけに容認することも多い。よく「周りの迷惑になるからバスや電車は使わない」と小さな子供の親が言うのを聞くが、これは 全く逆であるし、自らの育児能力のなさを露呈していることになる。周囲の迷惑にならないために子供をしつけるのであって、それを避けて「個」の空間に 押し込めてしまうのは迷惑行為を助長させることでしかない。仮にしつけたつもりであっても、それはその家庭でのローカルルールでしかなく、子供にとっては その空間―家の中や車の中―を出てしまえば、そのルールは守らなくても良いと判断する。これが顕著に出ていればいるほど、親のほうの問題も大きくなる。 つまり「家ではいい子なのに外では問題を起こす」という子になるが、親は「いい子」の部分しか見てないのであるから、自分の子供が問題を起こしているとは 信じない。信じないから問題の相手と対立する。モンスターピアレンツの一類型である。親のほうがしっかり対処出来ればいいのだが、これが「個」の世代で あればさらにタチが悪い。

 暴走した「個」の集団であっても、大きな問題に発展することはそれほどでもない。それはあくまでも「個」の世界で行われている行為であって、日常生活の 範囲を超えないもの―つまり「迷惑行為」程度に済むものである。だが、上記の事件のような大問題に発展するにはもう一つ要因が必要となる。それが「個」の 結集である。
 「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」といったギャグもあったが、一人では出来ないことも集団になれば出来てしまうことは多々ある。日常的な迷惑行為も、 集団でされればもはや「迷惑」では済まされなくなる。また、集団になると、非日常の行動も行われるようになる。一人では出来ないことを分担・協力する。 互いに腕を競い合い、評価する。これらのことが統制された集団で行われれば問題はない。これが無秩序の「個」の集団であれば、それはもはや犯罪集団に近い ものである。自分たちのやりたいことだけをやり、ほかを排除する。こうした集団の場合、この「個」への方向は累乗的に加速する。自分たちのローカルルールが 絶対的なものとなり、社会規範などはもはや頭の中にはない。行動はどんどんエスカレートし、大問題へと発達する。そうした結果が上記の事件であろう。 「個」の世代の形成のほかに、こうした「個」同士の交流が発達したことも要因にある。つまりインターネットの発達である。昔であればそうした反社会的な 交流は限られたルートであったり、狭い範囲でしかされなかったのだが、ネットの発達は「個」を直接結ぶものであり、基本的に干渉はされない世界である。 しかもその情報網は広く膨大であるから、自分と同じ感性、価値観、世界観を持つ者の発見は容易となった。したがって困った「個」が集団に発達する機会が 急速に増えた。また、それまでは情報不足で行動に起こす事が出来なかったことも、情報を容易に手に入れられるようになったことで、その過激な行動が「公」の 場に放たれるのである。時にはこの「個」の迷惑集団が、結託して大集団に発達する場合もあるが、ここにきてようやく社会はその集団の行動について対処を 始めるのである。小さな「個」の集団であればその被害は局地的であるが、集団となると問題は大きくなる。また、巨大集団とならなくとも、同じような集団が 行為を継続発生した場合も同様である。

 鉄道好きの行動で考えてみて、最も顕著な例が「三脚立て」であろう。撮影場所に三脚を立てておけば、その撮影場所 (ポイント) は三脚の持ち主が確保した ことになる...というものであるのは言うまでもないだろう。だが、これは一般の人が見ればどうだろうか。線路脇やホーム上に三脚が林立しても、それは単なる 三脚の集まりであり、何の意味もない邪魔物である。突如として現れた不気味なものと感じるかもしれない。鉄道好きにしかわからないローカルルールだが、 一般の常識として通用するかは疑問である。広く知られているローカルルールですらこれであるから、狭い集団内のローカルルールが社会に通用することは より確率が低い。ローカルルールを設定するのであれば、公のルールにのっとった上で決めるべきであり、場合によっては鉄道好きでない人の意見も入れる べきであろう。広く、様々な考えと交わることで極端に自分勝手な行動は抑制され、堂々と行動できるようになるはずである。
 また、撮影場所についても、できれば雑誌やネットで安易に知るのではなく、地図を見て予測したり、自らの足で歩いて探し出すのが良い。そうすれば同じ 撮影場所に人だかりが出来ることはなく、場所取りといったつまらないいざこざも発生しない。なにより自分だけの場所での撮影、という達成感があるはずである。 「個」の時代であるにもかかわらず、個性のないみんな同じような構図の写真ばかり撮って何が面白いのだろう。確かにきれいな風景や絶好の画角というのは 誰もがあこがれるもので、容易に発見・習得できるものではない。だが、「個」の時代であれば、自分の感性、自分らしさで撮影するのが正論であると思う。 「個」の方向へ向かっている者が多数の中に入ろうとするのは矛盾してはないだろうか。多数と同様のキレイなものを手に入れたという自己満足に耽るのだろうか。 はたまた「個」の中の孤独ゆえの集団への帰属願望か...。

 長々と書いてきたが、とにかく声を大にして言いたいのは
他人に迷惑をかけるな!
鉄道に対しては絶対的に!


参考  朝日新聞2010年2月15日朝刊 鉄道ジャーナル1985年3月号 鉄道ジャーナル1976年12月号

きはゆに資料室長