惜別 キハ58-23

 キハ58-23が2008年7月5日、47年という長い生涯に幕を下ろしました。このキハ58-23はJRとなってからずっとキハ58の 最若番であっただけでなく、急行型気動車キハ58そのものと言うべき車輌だったのです。
 このキハ58-23が落成したのは1961年6月20日。まだ東京オリンピックが開催される前、東海道新幹線が開業する前です。 新製配置は松本。それから7年は苗穂、青森、苗穂、美濃太田、千葉、高松、千葉、高松とめまぐるしく転属をし、その後は 千葉、大分、長崎、小牛田、山形、弘前、山形、秋田と転属を繰り返し、JRとなってからはずっと秋田にとどまっていました。 この広範囲の転属はキハ58-23のみで、北海道、本州、四国、九州の全てで活躍した唯一の車輌 (記録が残っているもので) なの です。配置区でこれなのですから、実際の運転範囲であれば、活躍をしていないのは中国地方と関西地方のみぐらいでは ないでしょうか。
 晩年は車体更新、機関交換といった若返り整形手術を受けましたが、人間の場合とは異なり(?)顔は原型のままというのも うれしいところでした。また、晩年こそ1日に秋田〜大館〜鹿角花輪を一往復する快速となりましたが、2002年12月までは この列車は急行「よねしろ」として運転されており、長い間本来の仕事を勤めてきたことになります。高度経済成長期とともに 働き、各地に転勤を繰り返すまさに日本のサラリーマンそのもののような存在だったのです。年齢こそ違いはありますが、実際に 働いてきた期間やその背景などを考えると、鉄道界の団塊の世代、とも言えるのではないでしょうか?
 2009年6月27日現在、私はこのキハ58-23が解体されたかどうかは知り得ていません。もしかすると最近の流れでありがちな、 第三国で第二の人生を...ということもあり得ます。そうなればキハ58-23の歴史はまだ終わっていません。定年退職後、 海外で各種の技術指導する方もいらっしゃいますから、そうした運命も持ち合わせているかもしれません。おそらく、現地での 活躍は短期間に終わるものと思いますが...。

 「キハ58系」自体が残り僅かとなり、出会う事が極めて難しくなった現在、長い間多忙な仕事をしてきた大先輩に対して 大いなる感謝をささげたいと思います。
きはゆに資料室長