ラストラン 神岡鉄道

 2006年11月30日の営業を最後に神岡鉄道は廃止となります。今回は神岡鉄道について、画像も加えて話をすすめてゆきたいと思います。
 国鉄神岡線としての開業は1966年(昭和41年)10月6日、国鉄から神岡鉄道に移管されたのが1984年(昭和59年)10月1日。開業から40年での廃線は鉄道としては短い部類にはいるかもしれません。しかし国鉄により開業する前からこの地に鉄道は敷かれていました。大正12年に個人名義で敷かれた鉄道は高山本線の笹津から現在の飛騨神岡あたりまでありました。それもこれもこの神岡の地にある神岡鉱山への輸送手段のためでした。この個人名義の鉄道はのちに三井金属へ譲渡され、若干の名義変更と路線の増減を繰り返したのち、国鉄神岡線が開業する1966年 (昭和41年) に大部分が廃止となり、最後に残った猪谷〜茂住の7.5kmが1967年 (昭和42年) 3月31日に廃止されこの役目を神岡線に譲ったのでした。
 このような経緯からも、国鉄神岡線もおのずと神岡鉱山に依存する形となりました。もっとも、神岡鉱山は亜鉛を産出する鉱山で、石炭や石灰石とは異なり採掘した鉱石をそのまま別の場所へ輸送することはなく、鉱山に併設されている精錬所で精製、金属塊として加工したのちに出荷していました。鉄道貨物では製品よりも加工、すなわち精錬過程で必要な濃硫酸の輸送が主たるものとなっていました。ちなみにこの精錬の過程では副産物としてカドミウム化合物が精製されます。このカドミウム化合物を含む廃液が神通川の支流である高原川に流れ込み原因で発生したのが四大公害病で有名な「イタイイタイ病」です (もちろん現在は直接廃液を垂れ流すことはなく、適切に処理されています)。この亜鉛採掘も2001年に操業を停止し、現在は精錬技術を利用した亜鉛のリサイクルなどを行っています。そのため貨物需要はめっきりと減り、ついに収入の大部分を占めていた貨物輸送が2005年3月31日でトラック輸送に切り替えられて廃止され、福知山線事故による新型ATS整備の影響もあり神岡鉄道の運命を決めることとなりました。
 貨物依存の神岡鉄道における旅客輸送需要は極めて低く、近年の少子高齢化・過疎化も加わって輸送密度 (人/日・キロ) は国鉄から移管されたのちも減り続けていました (移管された1984年は394、移管初年度の85年が265、翌86年が239、87年が194という具合) 。典型的な公団線であるため、駅は集落から遠く、集落の中にあっても高い高架橋の上という条件の悪さがあり、路線の半分はトンネルであることから観光面でも不利でした。富山への乗り入れがなくなった影響も多かれ少なかれあったと思われます。結局利用者は通学の高校生と病院通いのお年寄程度という典型的な過疎線の状況でした。実際乗車したときも、(時期が時期だったせいもあるが) 乗客のほとんどが神岡鉄道を撮影にきた鉄道ファンで、地元の方と思われるのは1〜2人程度でした。もちろん座席が全て埋まることはなく、1輌でもあまるほどとなっていました。このように乗客減少が続くなか、神岡鉄道もイベント列車を催すなど努力を試みましたが乗客増にはつながらなかったようです。
 あとわずかとなった神岡鉄道ですが、まだ時間はあります。青春18きっぷの時期は過ぎましたが、「鉄道の日フリーキップ」が発売される時期が最後のチャンスです。もちろん神岡鉄道内はこのキップでは乗車できません。別途運賃が必要となりますが、ここで注意事項を。神岡鉄道線を全線乗車すると580円ですが、車内の両替機、および奥飛騨温泉駅の券売機は新千円札が使用できません。ご乗車の際は小銭を大量に用意するか、夏目漱石の千円札をご用意ください。以下に私が訪れた際の画像を用意しております。旅の参考になれば幸いです。
 

その1
奥飛騨温泉駅舎
その2
奥飛騨温泉構内
その3
神岡鉱山駅
その4
神岡鉱業所

その5
鉱業所の橋
その6
おくひだ2号
その7
運転台
その8
スタフ



きはゆに室長