広島駅

   古い地平駅のホームではホームのかさ上げにより地層のような状態をしていることが多々あります。その層によって開業時、気動車化、電化などその路線と駅がたどった歴史を知ることができます。広島駅もそういった駅のひとつですが、ここの場合は特別な意味も加わります。
 昭和20(1945)年8月6日午前8時15分、広島は人類史上初の惨状に見舞われます。爆心地から2km離れた広島駅も大きな被害を受けました。駅本屋は鉄筋コンクリート造でしたが、拡張した待合室の天井が落下しその場所にいた利用客78名が死亡しました(その後の火災による死者も含む)。唯一残った駅本屋においても多数の負傷者がいたものと思われます。他の建物・施設も爆風により破壊・破損され、発生した火災によって焼き尽くされました。ホームの屋根も爆風によって倒れ、屋根のスレートは吹き飛んでしまいました。広島駅に隣接していた広島操車場でも運転事務室等の建物が破壊され、点呼中の職員が40名負傷するなど甚大な被害を受ける中、火災から信号所を守り、人や列車を避難・疎開させるなど被害を最小限にとどめようと尽力を尽くしたといわれています。利用客の正確な被害状況はわかりませんが、駅本屋、および操車場での職員の被害は死者11名、重症50名、中症73名、軽症78名とされています。もちろんこの数字は被爆当時から数日のもので、放射線による後遺症やこれによる死者は含まれていません。
 広島駅のホームの最下層は開業時のものと思われる石積みとなっており、現在広島駅において被爆を体験した唯一の遺構であると思われます。現在も多くの人が利用し、足を運ぶ広島駅のホームには、現在も沈黙を守り続ける被爆遺構がすぐそこにあるのです。

 被爆した鉄道車輌として路面電車では先ごろ保存が決まった650形が「被爆電車」として有名ですが、一方国鉄車輌では車輌の特定はもちろん、どのくらいの被害があったかもよくわかりません。ただ、当時可部線の電車を扱っていた横川電車区(横川駅に隣接)の被害については資料があり、その被害状況を垣間見ることができます。横川電車区が隣接していた横川駅は広島駅よりもやや爆心地に近く、電車区は火災により焼失しました。この横川電車区では1名の死者と47名の重軽傷者を出しています。当時電車区に配置されていたのは買収した広浜鉄道時代の社形電車16輌でしたが、このうち6輌が焼失、3輌が大破し、7輌が命をとりとめました。どの時期かは不明ですが、この焼失車の補充として弁天橋から7輌程度が転入し、昭和20年末には運転を開始したという記録が残っています。ただ、この転入車の車番はおろか、形式もわからないため、その車輌がどの車輌でその後どのようになったのかは不明です。なお、生き残った社形電車については、昭和31年度末にクモハ11形など17m車の転入により淘汰されましたが、これは別の社形電車の可能性もあり断定はできません。ちなみに被爆車輌の形式(全滅した可能性もあり)はモハ90・モハ91・モハニ91・モハ1・クハ6と推定され、17m車置換え直前の形式はモハ1500(2)、モハ1510(1)、モハ1520(1)、モハ2000(8)、クハ5500(2)、クハ5550(3)、クハ6010(4)でした(カッコ内は輌数)。
 広電、国鉄ともに被爆を体験した車輌がいましたが、方や「被爆電車」として残る一方、他方では保存はもちろん、その詳細すらわからない状態です。国鉄に関してはその当時広島近辺で被爆した車輌のほか、その後広島へ進入した車輌などもありその把握ができない可能性もあります。可部線が当時唯一の電化路線という特殊事情から車輌の特定ができたものの、仮に本線関係の車輌が被害を受けて廃車されていたとしてもまとめて「戦災による廃車」としてまとめられている可能性があります。車番が特定できない場合は「行方不明」として処理されることもあり、被爆車輌を特定することはもはや不可能といえるでしょう。

 現在はほぼ自由に鉄道車輌の写真を撮り、車番を記録し、乗車して旅を楽しむことが出来ますが、戦争となればこれらの行為は大いに制限を受けます。現在でも一部の国でこれらの行為ができないことから、一度そういう事態となれば再び日本でも制限されることが考えられます。そもそも「鉄道趣味」ということ自体ができなくなるでしょう。今後も自由に鉄道趣味を楽しめるためにも、平和の継続と重要性を主張し今回のまとめとします。

 参照文献
 広島駅関連    -鉄道ピクトリアル1957年8月号
 横川電車区関連-鉄道ピクトリアル1956年12月号
きはゆに室長