特集-鉄道事故と安全への取り組みの歴史

 2005年4月25日9時18分、福知山線尼崎〜塚口間で発生した事故は近年稀に見る大事故となりました。鉄道の安全性をも揺るがすこの事故は鉄道に対し多くの課題を突きつけることとなりました。今回とりだたされている問題は、企業体質と新形ATS(ATS-P)です。
 鉄道事故はその犠牲のひきかえに安全への対策を繰り返す歴史でもあったのです。今回の特集では、主に国鉄における過去の事故とその事故によって講じられた対策について述べてゆきます。なお、対策に重点を置いているため、重大事故であっても掲載していない事故も数多くあります。発生している事故はこれだけでないことを、先に述べておきます。

山陽本線特急転覆事故

 大正15年(1926年)9月23日3時28分、山陽本線安芸中野〜海田市を走行していた第1特急列車(11輌・木造客車)が、豪雨により築堤が崩落し宙吊りとなっていた線路に進入して機関車以下客車6輌が築堤の下に脱線転覆し、死者34人負傷者39人を出した。この特急列車は大陸方面に連絡する最速列車で、車輌も1等車と2等車のみという最高級の列車(今の鉄道で言えばオールグリーン車、飛行機ならファーストクラスとビジネスクラスのみというもの)であった。こうした編成であったがゆえに、6輌が脱線した割に死傷者数が少なかったとも言えるが、国際的にも重要な列車であったため事故に対する非難の声は大きかった。
 事故の原因は豪雨による築堤流出の発見、および情報伝達が遅れたことであるが、木造客車の問題も大きかった。当時列車は2分遅れで力行運転をしており、そのため脱線時の速度が高く、木造客車はもろもく破壊されてしまったのである。すでにこのころ一部の私鉄では鋼製電車が登場しており、国鉄でも同年から鋼製電車を登場させていたが、客車については設計段階であった。そのためこの事故を契機に鋼製客車の登場を急ぎ、翌昭和2年(1927年)から新製客車は鋼製客車となった。

北陸本線窒息事故

 昭和3年(1928年)12月6日11時13分、北陸本線刀根〜雁ヶ谷(のちに電化により柳ヶ瀬線になり廃止になった旧線)の柳ヶ瀬トンネル内で上り556貨物列車(45輌・換算62輌・後部補機つき機関車は前後ともD50)の機関士らが煤煙のため窒息して停車してしまい、これを救援に向かった機関車の機関士らも煤煙により窒息し計5人が死亡した。
 原因はこのトンネルが25‰の上り勾配 (この急勾配を緩和するためのちに新線が建設されることになった) であり、しかも貨物列車自体に重量物を載せたものが多かったこともあって列車速度が遅く、なおかつこのトンネルに侵入した際に列車とほぼ同速の追風がトンネルに吹き込んだためであった。トンネル内において蒸気列車と同じ速度で追風が吹くと、機関車から出た排煙は機関車の後ろに流れず、ずっと機関車付近につきまとう形になり、十分な装備をしていない乗務員は窒息してしまうのである。このため急勾配で長いトンネルは「要注トンネル」と指定され、このような追風が進入しないよう列車がトンネル侵入後トンネルの入口に遮断幕を下ろすようにした。これはもちろん人力による操作(のちに電動化されたが、スイッチの扱いのため係員は残った)であり、蒸気機関車が全廃されるまでこの「幕」は残ることになった。一部の買収路線ではすでにこうしたトンネルに幕が用意されているところもあった。
 一方蒸気機関車の運転台に煤煙が入り込まないようにする研究もされ、のちに集煙装置が開発されて勾配路線を走るD51やC57、C58などに装備されていった。しかし急勾配線以外でもこうした窒息事故が多く発生し、蒸気列車のトンネルでの戦いの歴史は、蒸気機関車全廃まで続いてゆくことになる。
            トンネル窒息のしくみと防止法(図説)

西成線ガソリン車火災事故

 昭和15年(1940年)1月29日6時56分、西成線(現在の桜島線)安治川口駅構内で、下り気1611列車(キハ42000ガソリン動車3輌)が単線の本線から下り構内線に進入する際、最後部の車輌(キハ42056)が進入し終わる前にポイントが転線し、後部台車のみが上り方に侵入してこの車輌が脱線転覆し、さらに転覆の衝撃により漏れたガソリンに引火して火災が発生し、死者190人負傷者82人を出す大惨事となった。この死者数は現在も国内の鉄道事故では最多となっている。このような多くの死者を出した背景となったのは、この地帯が軍需工場が多くあった地域であり、当時の気動車は機械式(自動車で言うミッション式)であったため多くても3輌での運転が限度であり、沿線の工場への通勤のため超満員であったためである。そのため事故後西成線は電化工事が急ピッチで行われ、翌昭和16年(1941年)4月に電化が完成している。
 この事故の原因は列車の到着が遅れていたため、上り列車を早く発車させるためにポイントを扱っていた信号掛が列車の進入が終る前にポイント操作をしたためであった。一方、この事故によりガソリン動車の危険性が浮き彫りとなり、石油統制もあってこの先気動車の運転は減少の一途をたどり、戦後気動車が復活するようになってからは引火の危険性が少ないディーゼル動車化が進められることになった。

山陽本線列車追突事故

 昭和16年(1941年)9月16日、山陽本線網干駅に上り116客車列車(9輌・C57-128牽引)が23分延で到着し、先発列車の英賀保駅(上り方面の隣の駅)到着を待っていた。これは落雷により信号が故障し、先行列車到着を確認後出発させる方式をとっていたためであった。18時12分、この116列車が停車していた1番線に、後続の上り第8急行列車(13輌・C53-77牽引)が85km/hで追突し、116列車の後部の客車4輌と、急行列車の機関車と客車3輌が脱線転覆し、死者65人負傷者110人を出した。
 事故は後続列車の機関士の停止信号見落としによる信号冒進が原因である。このような信号冒進は明治のころから多く発生しており、乗務員の訓練だけでは回避不能と言わざるを得なくなった。そのためこの事故を契機に車内警報装置やATSの研究が本格的に始まることになったが戦争により未完成となり、戦後も資材不足やGHQの許可が出なかったため中断し、昭和26年にようやくごく一部の路線に試用され始めた。本格的な導入は後述の参宮線事故以降となる。
 また、現在信号現示が「注意」の場合は45km/hの速度制限となるが、これもこの事故がきっかけとなってできたものである。それまでは「注意現示」であっても速度は運転士の判断に委ねられており、停止現示発見後に非常ブレーキを扱っても間に合わないことが多々あった。そのため事故のあった岡山管内で試用され、停止現示に遭遇する頻度が低くなった一方、列車の遅延も少なくなったため、広島局管内で採用されたのをきっかけに全国的に広まっていった。

D52ボイラー破裂事故

 D52という機関車は、戦時中より1200t級の貨物を運ぶために製造された超大型の蒸気機関車であるが、戦時中の物資不足と熟練工の徴兵により、その「出来」はひどいものであった。このような原因により、ボイラー破裂というそれまでわずか2件しか発生しなかった重大事故が短期間に多く発生することとなった。
 まず、昭和20年(1945年)8月11日7時15分、山陽本線万富駅を第2客車列車(9輌)が通過中、D52-82のボイラー火室の天井板が破裂し、その反動でボイラーの大部分が台枠から飛び上がり向かいのホームに落下した。これにより客車2輌が脱線・大破、2輌が中破し乗務員1人が死亡、乗務員4名と乗客4人が負傷した。次に同年10月19日12時45分東海道本線醒ヶ井構内で上り972貨物列車が場内信号機を20m進んだところ、D52-209のボイラーが爆発して13m離れた川の中まで飛び、乗務員3名が死亡し1名が重傷を負った。さらに同年12月7日に山陽線吉永〜三石でD52-371が同様の事故を起こした。昭和29年(1954年)にも8月30日10時20分、東海道本線山科駅構内にてD52-365牽引の上り553貨物列車が力行運転中、安全弁噴出と同時にボイラーの左の部分が割れ、大音響とともに蒸気が噴出したため急停車した。この事故では幸い人的な被害はなく、周辺人家などへの被害もなかった。
 これらの事故の原因は質の悪い材料と、技術の低い徴用工による製作にあった。そのためD52は貨物輸送の激減も背景にあったが昭和21年(1946年)〜24年(1949年)までに122輌もが廃車になっている(改造を含む)。廃車にならなかったものも心臓部であるボイラー破裂という最悪の事態を防ぐため、昭和30年(1955年)からボイラーの取替えが順次行われ、同時に戦時中の劣悪な部品の取替えや体質改善が行われ、戦時中の部品は半分ほどにまで減りました。この修繕工事によりD52はようやく本領を発揮できるようになったが、すでに活躍の場は狭まっているのであった。

八高線脱線事故

 昭和22年(1947年)2月25日7時50分、八高線東飯能〜高麗川の20‰下り勾配で下り3客車列車(6輌・C57-79牽引)のブレーキが故障したためか速度が下がらず、高麗川駅手前の築堤上のカーブ(曲線半径250m)で後部の4輌が脱線し、5m下の畑に転落して死者184人、負傷者495人という大事故となった。この死者数は前述の安治川口の事故に次ぐもので、負傷者数を含めると当時最悪の鉄道事故となった。このころの列車は食料の買出し目当ての乗客があふれ、超満員の状態であったためこのような大人数の死傷者を出すこととなった。なお、八高線では昭和20年8月24日にも小宮〜拝島で死者105人負傷者67人を出す列車衝突事故があったばかりで、この事故に対する非難は大きかった。
 事故自体の原因はブレーキの故障であるが、被害をここまで拡大させたのは乗客の多さとともに木造客車の問題であった。木造客車の問題は最初にあげた山陽本線特急転覆事故と同様だが、こちらの事故のときの対策により新製客車は木造客車から鋼製客車に替わったが、全てが鋼製客車になったわけではなく木造客車自体はまだ走り続けていた。事実、この当時の木造客車は依然全客車数の60%もあり、車齢も若くても20年を越えていた。そのため当事故を契機として木造車の駆逐が決定した。しかし当時の財政は厳しいうえ、インフレも重なり全ての木造車を置き換えるだけの数の鋼製車を新製することは不可能であった。そのため木造車を6年計画で鋼体化改造することにした。この改造は全長17mの木造客車3輌分の台枠をつなぎ合わせ、全長20mの鋼製車を2輌作り出すというもので、客車の20m化にも役立った。木造車体の鋼体化を目的にしていたため、台車や座席など使えるものは流用した。そのため車体外観は立派でも客室設備は木造車のままであった。この改造は昭和30年(1955年)に完了し、60系客車として戦後の鉄道復興に貢献することとなった。一部の車輌は木造車のまま残り事業用車となったが、戦災復旧車が余剰になるとこうした木造事業用車は廃車されてゆき、昭和40年代初めに消滅した。電車の鋼体化改造は客車よりも早く行われていたが、客車と同様に一部の車輌が木造のまま事業用車で残った。一方、一部の私鉄の木造車は営業車輌として走り続け、これらも昭和40年代になって廃車されてゆき、ようやく木造車の歴史が終わりを告げた。
 ※ 木造車とは躯体や車体外板など車輌を構成する部分に木材を使用している車輌のことで、車体構体に金属を使い、客室内などにのみ木材を使用している車輌は半鋼製車輌と呼ばれている。現在SL列車などに使用され残っている旧型客車などは半鋼製車輌である。純粋な木造車は静態保存車輌にあるぐらいとなっている。

桜木町火災事故

 昭和26年(1951年)4月24日13時40分、京浜線(厳密には東海道本線の支線、現在の根岸線)桜木町駅構内の上り線で行っていた電気工事の作業員が誤ってスパナを落としてしまい、架線が断線して垂れ下がってしまった。そこにに下り1171列車(63系電車など5輌)が進入してこの架線が最前部のモハ63756のパンタグラフに絡まってショートし火災が発生した。この火災によって1輌目が全焼、2輌目(サハ78144)にも火が燃え移り半焼。死者106人、負傷者92人を出す惨事となった。
 原因は架線ショートによる発火・火災であるが、被害を大きくした理由がいくつかある。最大の要因はこの63系電車にあった。この車輌は戦時中より少ない材料でより多くの輸送を果たすために設計された車輌で、車体こそ鋼製であるが屋根や客室内の大部分は木製で、ガラスの節約のため窓を3段にし、貫通路も引き戸ではなく開け戸であった。そのため火のまわりが早く、満員の車内では開き戸であった貫通路の扉は開かず、さらに3段の窓の中段は固定されていたため窓からの脱出も出来なかった。次の要因は運転士がショートを確認した直後にパンタを下げてしまったことであった。運転士はショートによる火花を確認した後、火災被害の拡大を防ぐためパンタグラフを下ろしたのだが、パンタグラフを下ろしたことによりドアの開閉をする電気も失ってしまい、ドアを開けることが出来なくなった。当時の車輌はドアを開け閉めするための空気コックは車内になく、その位置も関係者以外にはわからないものであったため、外からドアを開けることも不可能であった。
 この事故から次のような点が改良されることになった。まず、全車輌に対して客室内の各扉にドアコックを設置し、その位置を明示したうえで使用法も表示する。この表示は車体外側にもされ、記号によりコックの位置を示している。次に引き戸の貫通路を設け、非常時には隣の車輌へ移ることが出来るようにした。そして消火器の設置と、車体自体の金属化や客室設備の難燃性を施すようにした。また、63系電車については3段窓を改良し、中段も動かすことが出来るようにして非常時には窓から脱出できるようにされた。ほか、天井などには防火塗料が塗るなど応急的な処置がされた。その後本格的な体質改善と編成増を考慮に入れた電動車の中間車化(クモハ→モハ)などを行い、これらの対策を行った63系電車は73系に形式を変更した。車体の不燃化はその後進歩していったが、近年窓の固定化やドアコックの数が減少するという動きが気になるところである。
            三段窓の構造

参宮線列車衝突事故

 昭和31年(1956年)10月15日18時22分、参宮線(現在は紀勢本線)六軒駅で下り243快速列車(9輌・C51-203 C51-101牽引)が10分の遅れがあったため臨時停車させ、上り246快速列車(11輌・C57-110 C51-172牽引)と行き違いをさせることになった。しかし下り243列車は信号誤認のためか通過速度(60km/h)のまま進入し、出発信号の停止現示を見て非常ブレーキをかけたが停止できずに安全側線に突入し車止めを突破してしまい、機関車2輌と客車3輌が脱線転覆して上り線を支障してしまった。間もなく上り列車が駅に進入し、脱線した下り列車と衝突し上り列車は機関車2輌と客車1輌が脱線転覆して両方の列車あわせて死者40人負傷者96人を出す大事故となった。下り列車の乗客の多くが修学旅行の生徒であったこともあり、厳しい批判を受けることとなった。
 原因については信号誤認と駅側の信号扱いの誤りと真っ向から対立し、裁判で争われたが、結局機関車乗務員の信号誤認と認定された。信号誤認が原因とされたことにより、赤信号の見落としはもはや乗務員の訓練等では限界にきているとされ、全国的に車内警報装置が導入されることになった。また、原因と認定されなかったものの、人による信号操作の危うさや夜間の信号の見落としなどを防ぐため、信号の色灯化や自動化が推進されるようになった。

山陽本線列車追突事故2

 昭和36年(1961年)12月29日12時ごろ、山陽本線小野田〜西宇部(現在の宇部)で先行列車を発見し停車していた下り第1特急列車(14輌・C62牽引)に後続の2405列車(気動車)が追突し、特急の客車1輌が脱線し後続の気動車列車も1輌が脱線した。この事故により50人が負傷した。
 この事故当時は大雪のため、通信不能や信号故障などが多発して自動閉塞が使用できない状態となっていた。そのため代用閉塞方式として「隔時法」が使用されていた。この「隔時法」とは通信不能などで通常使用している閉塞方法(この事故の場合は自動閉塞)が使用できないときに使用する代用閉塞のひとつで、10分程度の時間間隔をあけて列車を15km/h以下という条件で走らせる方式で、戦時中に使用され始めた方式であった。この事故当時は特急列車は先行列車を発見し停車していたのだが、その場所は曲線部分であったため後続の気動車列車が先行の特急列車に気付いたのは80m手前で、速度は45km/hであった。速度超過や線形の問題もあったが、正確な閉塞を保てない状態で列車を運転する隔時法がこの事故を契機に廃止され、同様の理由で隔時法と同じく代用閉塞として使用されていた通信式、指導通信式も廃止された。同じく代用閉塞として使用されていた指導式(ある指定された者(指導者)がタブレットの代わりとなって閉塞区間を走る列車に乗り込んで閉塞を確保する方式)については、運転区間に支障がないことを実際に現地に赴き確かめた人を指導者とするようにし、誤りがおこらないように改められた(現在もこのような代用閉塞が使用されるのかは不明である)。

三河島三重衝突事故

 昭和37年(1962年)5月3日21時37分、常磐線三河島駅構内で先行列車の遅れのため臨時停車することになった田端発下り第287貨物列車(45輌 換算不明・D51-364牽引)が場内信号の注意現示を見落とし、出発信号機の停止現示を見て非常ブレーキを扱ったが停止できずに安全側線の車止めを突破し機関車と次位の貨車(タキ50044)が脱線し下り本線を支障してしまった。間もなく三河島駅を4分延で発車した下り第2117H列車(6輌・電車)が脱線車輌に接触して2輌が上り線へ脱線し、これも支障してしまった。その6分後、上り第2000H列車(6輌 電車)が進入し、脱線した下り列車を発見して非常ブレーキをかけたが間に合わず、下り電車に接触して4輌が脱線転覆し築堤したの家屋に突っ込んだ。この三重衝突事故は死者160人負傷者296人という多くの被害者を出した。
 事故自体は貨物列車乗務員の信号冒進が原因であるが、ここまで被害を拡大させたのはある要素があったためである。最初の貨物列車脱線のあと下り電車が接触するが、「駅構内」と言っても三河島駅ホームからこの事故現場の安全側線までは450m(現在の数値)あり、車輌や家屋の灯火があまり明るくなかった当時では、夜間に数百メートル先で脱線していることを発見するのは困難なのではなかっただろうか。また、本来ならば貨物列車が停止している横をこの下り電車が先行する予定になっていたので、貨物列車が側線にいることは不思議ではなかっただろうし臨時停止の旨を知らされていれば貨物列車が本線に進入しているという警戒感も抱かなかったであろう。しかし下り電車が貨物列車と衝突し脱線してから上り電車が進入するまでには6分の時間があった。両列車の運転士はともかく、電車の車掌は防護の手配をすることができたであろうし、ホームにいた駅員も異変に何も気がつかなかったとも思えない。裁判でもこうした点から貨物列車乗務員のほか、下り電車の乗務員と三河島駅の助役と信号掛2人が有罪とされた。
 この事故を契機に参宮線事故で使用することが決定した車内警報装置に自動停車装置を加えたATSの導入が決定された。また、こうした脱線事故などの際の防護のために信号炎管を動力車に取り付け、安全側線についてもその安全性の見直しが検討された。
            事故経緯の図説

鶴見三重衝突事故

 昭和38年(1963年)11月9日21時51分、東海道本線(3複線で現在は横須賀線となっている線路)鶴見〜新子安を走行していた下り第2365貨物列車(45輌 換算不明・牽引EF15)の43輌目のワラ501(ワラ1形式・2軸車)が進行方向左側に脱線し、続く2輌も脱線して旅客線(東海道本線、当時は横須賀線の列車もここを走行)に支障したまま引きずられ架線柱に衝突した。直後この旅客線に上り第2000S列車(横須賀線70系電車 12輌)がやってきて脱線貨車と衝突。同時期に下り第2113S列車(横須賀線70系電車 12輌)が架線異常を察知し、非常制動をかけながらやってきた。上り電車の1輌目は貨車と衝突後下り電車の4輌目と5輌目に衝突して上り電車の2・3輌目も貨物線側に脱線し、死者162人負傷者120人を出す大惨事となった。
 事故の発端は貨物列車の脱線であるが、そこへ不運としか言いようのない偶然が重なり大きな被害を出すことになった。貨物列車は力行運転中で事故時の速度は60km/hであった。脱線現場付近は曲線半径450mカント70mmの曲線から直線へと変わる部分で、脱線地点の16.3m手前で貨車がせり上がっている痕跡が見つかった。こうしたいくつかの要因が複合して発生する「競合脱線」はかなり昔からしばしば発生しており、長く「原因不明」として処理されていたが、この事故を機に本格的に競合脱線のメカニズムの解明と防止策の発見がなされることになった。この競合脱線は2軸貨車で発生することがほとんどで、2軸貨車を実際に脱線させるという大規模な実験が行われるようになった。実験は根室本線落合〜新得の旧線のうち新内〜新得を狩勝実験線として行われ、貨物の積載状態、空貨車と積載貨車の編成具合、運転速度や加減速度など様々な方向から調べられた。
 余談ではあるが、この鶴見事故と前の三河島事故の両方の事故列車に2000という列車番号が使用されていたことから、それ以降2000という列車番号は使用されなくなった。と思っていたのだが、この裏づけをするため調べていたところ、現在山手線に「2000G」という列車があることが判明した...。事故の原因とは全く関係はないのだが、危機意識の薄れが出ているように思うのは気のせいであろうか。
            事故経緯の図説

北陸トンネル列車火災事故

 昭和47年(1972年)11月6日1時13分、北陸本線敦賀〜南今庄の北陸トンネル(全長13870m 上り12‰勾配)を走行していた下り第501急行列車(15輌・EF70牽引)の食堂車(オシ17-2107 11輌目)から出火し、車掌が消火に努めたが消火できず、トンネル内で火災車輌を切り離すことにした。11輌目と12輌目を切り離して60mの距離を保ち、ついで10輌目と11輌目を切り離し脱出を試みたが、火災により架線が溶け停電してしまい身動きがとれなくなってしまった。その位置はトンネルのほぼ中間地点であったこともあり死者30人負傷者714人を出す惨事となった。この時間帯に上り列車もトンネルを通過することになっていたが、防護手配がされたことにより二次被害を防ぐことができた。
 この火災の原因は食堂車の電気暖房の廃線がショートして発生したとされている。しかしこの事故では長大トンネル内で発生した火災ということが問題となった。まずトンネル内で火災が発生した場合、どのような処置をするのが最も適当であるかが調べられた。今回の火災事故では、トンネル外の場合と同様に列車を止め火災車輌を離すことにより延焼を最小限にとどめる方法がとられたが、当時ではこれが火災時の対処法であった。しかしこの方法はトンネル内、しかも電化された長大トンネルでの場合を想定しておらず、この対処法が裏目に出てしまったのであった。そこでトンネル内のみならず、車輌火災そのものについて綿密な検証が行われることになり、前述の狩勝実験線や宮古線猿峠トンネルなどで車輌火災実験が行われた。また、土木技術の向上により次々登場する長大トンネルへの対策として、照明を多くして非常用の消火設備を設けるほか、トンネルの両端駅との連絡設備を設けた。
            火災実験の詳細

営団日比谷線脱線事故

 2000年3月8日9時過ぎ、営団日比谷線中目黒駅構内で同駅に進入していた北千住発菊名行き下り列車が、時速12km/hでポイント(曲線半径160.1m)通過時に最後尾の車輌が脱線し同時に通過してきた上り列車と衝突し死者5人負傷者63人を出す事故となった。
 原因は速度、分岐曲線の強さ、軸重の偏り、車輪フランジの磨耗状態、レールの磨耗状態など様々な原因が複合して発生した、車輪の「せり上がり」とされた。このような複合条件での発生のため、「これ」といった原因が判明されていないが、事故の防止のためこれらの原因となりうる条件から算出された条件式により、ある一定の数値に満たない曲線半径の区間(ポイントを含む)は線路を改良し、これが不可能な場合は護輪軌条(脱線防止ガード)を設置することになった。鉄道会社によってこの数値は大いに変化するため、同じ曲線半径であっても設置している会社と設置していない会社があるのも事実である。もちろん、各社の安全に対する投資額による差も大きい。なお、護輪軌条については各社で独自の基準によりすでに多くの急曲線で設置していたが、営団の場合は首都圏の各社のうちでもその基準は甘いとされていた。運輸省令では曲線半径は以下(160m)と定められているが、軌道法準拠の地下鉄においてはこの基準を特例により許可されていた箇所も多く、設置基準の甘さの原因と推察される。

 このように、鉄道で重大事故が発生するたび大規模な安全対策がとられていますが、残念ながら事故を完全になくすことはできません。その背景には鉄道会社の経済的な問題、安全向上の一方で車輌技術向上による高速化、人員削減などがあります。特に大事故のおきた直後は安全対策にも細心の注意がはらわれますが、これもしばらく時間が過ぎるとおろそかになりがちとなり次第に経営優先となりつつあります。今回の事故はまさにこういった時期に発生したものであり、経営よりも前提条件である「安全」をおろそかにすることがどれだけの代償を生むかという事を示していると思います。安全な鉄道であり続けることこそ、こうした事故の犠牲者に対する最大の弔いとなるのですから。

参考文献 (本文関連)
鉄道ピクトリアル1962年10月号
鉄道ジャーナル1977年6月号
鉄道ファン1986年2月号
鉄道ファン1986年3月号
鉄道ファン1986年5月号
鉄道ファン1986年7月号
鉄道ファン1986年8月号
鉄道ファン1986年9月号
鉄道ファン1986年11月号
鉄道ファン1987年1月号
鉄道ファン1996年1月号
参考文献 (各テーマ別ページ・上記以外)
鉄道ジャーナル1971年10月号
(トンネル窒息)
鉄道ピクトリアル1997年5月号
(三段窓)
鉄道ピクトリアル1962年7月号
(三河島事故)
鉄道ピクトリアル1964年1月号
(鶴見事故)
鉄道ピクトリアル1966年9月号
(鶴見事故)
鉄道ジャーナル1973年11月号
(火災実験)
鉄道ピクトリアル1975年5月号
(火災実験)


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