E10 データ 

E10の概要
 奥羽本線の福島-米沢間は山脈を越える急勾配線で、その勾配は38‰と蒸気機関車としては限界に近いものでした。そのためこの区間は4110型というEタンクの特殊な機関車が使われていました。しかしこの機関車ができたのは大正初期で、終戦時には車齢は30年以上になっており、特に戦時中過酷な使用をしたため老朽化が目立っていた。ただでさえこの区間の運転は大変で、トンネル内では運転室の温度は70℃を超えることもあり、乗務員はまさに命がけで挑んでいたのでした。このような過酷な状態の打開と輸送力の増強、そして老朽機関車の淘汰を目的として開発されたのがE10でした。
 E10はアルファベット式になってから初のE型機で、最後の新製蒸気機関車となりました。Eタイプとなったのは、どうしてもこの区間を乗り越えるのにはDタイプよりも出力の出るEタイプである必要があり、軸重を抑える必要もあったためです。軸重を抑えるのは当時最大のボイラーであったD52のものを使うことと、タンク機関車にする必要があったためでした。しかしこの設計には矛盾する点がありました。出力を大きくするためには大きなボイラーを載せ、運転性を良くするにはタンク機関車の方がよいのですが、この2つを満たそうとすると車体長は長くなり、重量も増えてしまいます。とりあえず重量を軽減するためには従輪をつければよいのですが、これも車体長を長くする一因となってしまいます。E10の設計・開発はまさに車体長との戦いでした。外見はD52のボイラーを短縮したものを載せたためC62をタンク機関車にしたようになり、その全長はデンター機関車のC56をも上回るタンク機関車とは思えないシロモノになってしまいました。車体長が長くなることで一番問題となるのが曲線部での車輪の横圧です。蒸気機関車の場合少なくとも動輪はずっと一直線になるのが原則で、そういったことをふまえて曲線部は標準軌間の1067mmより若干広く軌間を設定しています。もちろんこの軌間内に収まらなければ、車輪が乗り上げ脱線してしまいます。4110の場合は何とか収まっていたのですがE10の軸距離はどの機関車よりも長く、これに収まりきらなかったのです。そこで第1動輪を可動式としてさらに苦肉の策として第3第4動輪のフランジをなくすという方法がとられました。これは大変危険なことですが、粘着性が極めて高いことから問題はないと判断され実施されました。また、急勾配に加えトンネルも多いことから乗務員の窒息防止のために運転台の向きを逆にするというはじめての試みがなされました。つまり炭水庫側を向いて運転するのを通常とし、他の機関車のような運転を逆向きとしたのです。
 こうして苦心して生み出されたE10ですが、最後の新製蒸気機関車にふさわしい悲劇的な運命が待ち受けていました。設計は昭和21年から始まり昭和23年に完成しましたが、当時すでにこの区間の電化が決定しており、製造は5輌という最も少ない数で中止され、この区間を活躍したのもわずか1年足らずでした。次の活躍の場はもともと4110型が配置されたことのある肥薩線が選ばれましたが、現場の反発が強く、ほどなくして勾配の強かった北陸本線の倶利伽羅峠を越えるための補機として津幡〜石動間を活躍することになりました。このころには運転台の向きは他の機関車と同じように改造されていました。けれどこの区間も昭和30年に勾配改良の線路変更が行われ、新たな職場を探さねばならなくなりました。最後の職場となったのは同じく北陸本線の米原〜田村間でした。当時田村から敦賀方面は交流電化がされていましたが、米原までは電化がされておらず、この区間の運転に使用されることになったのです。この区間はわずか4.7kmですが裏縦貫線という非常に輸送量の多い路線であったため、出力が強く小回りのきくE10が適していたのです。やがてこの区間も昭和37年12月28日に交流電化がされるといよいよE10は活躍の場を失い、その短い波乱に満ちた人生(?)を閉じることとなったのです。

性能データ
全長
全高
自重
軸配置
14450mm
3982mm
102.10t
1-E-2
使用蒸気圧
出力
最高速度
軸重
16kg/cu
1340馬力
65km/h
14.24t
シリンダ径
動輪径
製造期間
軸距離(全動輪/2〜4動輪)
520mm
1340mm
昭和23年
5800/4350mm