C62の概要 |
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貨物最大機として登場したD52ですが、戦争が終わり貨物需要が減って旅客需要が急増するとその立場は転落し、一気に厄介者扱いされることになりました。やむを得ず旅客列車に貨物機関車を充てることもありましたが、速度が遅い上車輌や線路の保守上歓迎されませんでした。当時物資も製造力も極度に低下・困窮し、さらに日本を統治していたGHQから新製機関車の製造が厳しく制限されていました。そこで貨物機関車のD52を旅客機関車に改造することが考えだされ、C62が登場したのです。 当時の状況は切迫しており、一刻も早い改造が望まれましたがこの改造は容易ではなかったのです。改造とは言え、設計が不要なのはボイラーだけで、他は事実上新たに設計するという状態でした。しかも動輪を1つ減らすとその分軸重が過大となり、ただでさえ軸重が重かったD52よりも重くなってどこでも使用できなくなるおそれがありました。そこで開発されたのが2軸従台車です。この「2軸従台車」とは動輪の後ろにつける従輪ですが、当時動輪の前につける「先台車」には2軸のものはありましたが従台車は2軸のものはなく、火室があることから不可能と言われていました。結果としては横の動きを抑え、その分動輪のフランジを削るといったことで解決することができましたが、この台車の完成はこのあとの軽軸重化改造に大きく寄与することになるのです。D52の火室は広く、日本人の体形には無理があるほど大きなものであり、当時の石炭のカロリーが低く燃焼率が悪かったため自動給炭装置が取り付けられました。これは炭水車からねじ式のコンベア(ワインのコルク抜きや洗濯機の洗剤自動投入機のようなもの)によって火室付近まで送られ、蒸気圧によって火室の各方向に飛ばされる仕組みでした。D52のボイラーは直径も大きく、動輪の小さなD52のころは問題はなかったのですが、旅客用で動輪の大きなC62となった際にボイラー中心高が高くなる問題が生じました。それまで最もボイラーの中心高が高かったのは9600の2596mmでしたが、C62は2630mmとこれを上回るものとなってしまいました。ボイラーの中心が高くなることは車輌の重心が高くなり、好まれないことでしたが9600のときと同じくシリンダ位置の低下と動輪や台車の重量増によって重心を下げることに成功しました。 製造は昭和23年から始まりましたが、翌年先従輪の位置を変えて軸重を軽くした軽軸重化が登場しました。これは常磐線や東北本線で使用できるようにしたもので、のちC62が電化に追われて各地へ散ってゆく際にこの軽軸重化改造を施されました。 配置は東海道・山陽本線を中心にされ、前述の軽軸重車は東北・常磐の両線に使用されました。東海道・山陽本線の電化により西に追いやられてゆき、一部は東北や北海道に移りましたがそのパワーを生かして特急や急行の運用についていました。やがてこれらの路線の電化が完成するとローカル列車の運転に回ることもありましたが、廃車になるものも出始めることになり、使用路線が限られていたこともあって昭和47年に全ての運用がなくなりました。 |
性能データ 炭水車を含む(通常車/軽軸重車) | |||
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全長 |
全高 |
自重 |
軸配置 |
21475mm |
3980mm |
127.7t |
2-C-2 |
使用蒸気圧 |
出力 |
最高速度 |
軸重 |
16kg/cu |
1620馬力 |
100km/h |
16/15t |
シリンダ径 |
動輪径 |
改造期間 |
軸距離 |
520/500mm |
1750mm |
昭和23年〜24年 |
3870mm |