C55 データ 

C55の概要
 C55はC51の流れを受ける急行用機関車として誕生しました。事実上はC54の後継車輌で、性能などもほぼ同じなのですが、C54が不評に終わり影のうすい存在であったため、C55が急行線用機関車としてC51の流れから分離して登場したように思われる方もいらっしゃるかと思います。C54との違いは台枠など下回りを中心としており、外観では蒸気ドームと砂箱が一体化された程度の違いしかありません。動輪はスポーク動輪ですが、リム(車軸中心から外へのびる棒)が強化され、変形などが少なくなり箱型動輪よりも優れているという評判もありました。
 C55で忘れてはならないのが流線型機関車です。当時は世界的に「流線型」が流行し、日本でもEF55、クモハ52、キハ42000(キハ07)、キハ43000といった車輌が登場し、私鉄でも規模の大小を問わず登場しました。流線型にすることで車輌が受ける風の流れをスムーズにし、この抵抗を少なくすることでスピードアップを図ることができるという理論でしたが、時速100km/h前後ではあまりその効果はなく、また客車も含めた編成全体が流線型でなくては無意味であったため、もっぱら視覚効果のみとなってしまいました。流線型機関車は最初C53-43を改造し、その結果がまずまずであったためC55の20〜40の21輌が流線型で設計、製造されました。しかし現場、特に保守サイドでは不評で、足回りの点検の際にいちいちスカートを上げなければならず、その施錠の手間やスカートの骨組みに頭などをぶつけ負傷することで嫌われていました。また、炭水車にも覆いがつけられていたため給炭・給水の際に手間がかかり、運転中に奥の石炭を引き寄せる作業にも苦労を強いられました。そのため次第にスカートなどの邪魔なものは取り払われ(個人的な推察では戦時中の金属供出も一因と思われます)なんともみっともない姿で走らされていました。やがて戦後になると他の車輌と同じように改造がされることになり、昭和25年には「流線型機関車」は姿を消してしまいました。
 急行用として登場しましたが、東海道・山陽本線の急行には就かず、各地の主要幹線の急行に活躍しました。これはなるべく広い地域で使用できるように軸重を軽くしたためで、比較的遅くまで残ることのできた理由のひとつでもあります。しかしC57の登場により主要幹線から準幹線へと移り、次第に普通列車を牽引するようになり活躍の場は北海道と九州がほとんどとなりました。やがてディーゼル化や気動車化が進むと廃車が始まり、昭和50年に姿を消しました。

性能データ
全長
全高
自重
軸配置
20380mm
3945mm
113〜4t
2-C-1
使用蒸気圧
出力
最高速度
軸重
14kg/cu
1040馬力
100km/h
13.62t
シリンダ径
動輪径
製造期間
軸距離
510mm
1750mm
昭和10年〜12年
3800mm