戦時中は全ての物資が統制され、統一された寸法で製造するといった方法が採られていました。特にこの時期は貨物輸送が海運から陸運に切り替えられたこともあって、鉄道が担う役割は大きくなっていました。もちろん貨物の量は増大し、それに伴い機関車も数多く生産され、D52といったマンモス機関車も登場しました。その一方で、到着した貨車を工場や倉庫に移動させる機関車も多く必要となりました。その対策として昭和17年にこれら移動用機関車の設計を統制し、効率よく生産することになりました。まず使用する線路幅によって甲・乙・丙・丁・戊に分けられ、次に動輪の数によってBとCに分けられました。最後に機関車の重量によって分けられ、結果10種類の機関車が計画されました。この中の乙B20がB20機関車です。この「乙」は1067mm軌間で使用する車輌という意味で、国鉄で使用するのに不要であるため省略されました。しかしこの設計がまとまった昭和19年にはこのような機関車を製作する余裕はなく、実際に製造されたのはわずかでB20の場合も戦時中は5輌のみでした。
B20の構造は戦時設計ということもあり、きわめて単純で不格好なものとなりました。まず当時の機関車のボイラーは大正以降「過熱式」という方式を使っていましたが、構造が複雑なため初期の機関車で使われていた「飽和式」が使われ、その直径も小さかったためナンバープレートが異様に大きく見え、車体の各部分は直線的な設計で生産しやすくされていました。戦後10輌が製造されましたがそれ以上は製造されず、もちろん本線で活躍することはない非常に地味な車輌でした。このような機関車であったため廃車も早く進み、1960年に入るころには3輌程度しか残っていませんでした。しかしその特異な外観が幸いしたのか、梅小路機関車館に保存されることになり、2002年には動態保存されることになり現在も甲高い笛を吹いて大柄な先輩たちの脇を走っています。
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